美術公募団体の先細り傾向が、よく取り沙汰される。
それは必ずしも団体展を囲む日本の世代間環境の劣化、つまり 表現予備群の高齢化と若年層の減少だけに要因するわけではないだろう。団体展そのものが、一般ビジネス社会のように運営(経営)を組織機能の効率化ばかりに時間をかけ、表現集団としての本来的な個性や創造性の歓びを分かち合うという目的を、すっかり忘却した感があるからにほかならないのだ。
例外も無くはない。けれども現状のほとんどの団体展が、会員以上のクラスになればなるほど、作品のレベルアップ等どこ吹く風。周囲に先生・先生ともちあげられるほどに、政治屋になりさがっている。
魅力に欠ける作品の創り手などに、どうして若者たちが靡くだろうか。
また、先生呼ばわりして太鼓持ちのように擦り寄る想像力の貧しい、自称評論家たちも困った存在だ。
批評対象を先生呼ばわりして、厳しい批評など可能だろうか。
主催団体側のただのイエスマンに甘んじているにすぎないのではないか。
とにかく全団体展の幹部クラスに必要とされているのが自らの作品のレベルアップを図り、一般会員やそれに続く出品者たちを納得させること。「こんな作品で、よく威張っていられるわね」と陰口を敲かれないように。
注目される団体展ほど、幹部クラスに秀れた創り手がいるのは確かだ。
以上、団体展の現状について、辛口に走り書きしました。
「日象展」も例外でなく、むしろその典型に近いだろう。
総体的に、絵画部門の停滞が目に余る。合格点がどうにか付けられるのが、かろうじて船越 信「光貌Ⅱ」、玉置光男「清涼の風」、伊太知駿子「燦」、岩堀幸子「新緑」、梅谷はつ「遊」、谷村百合子「記憶の中に」、内藤則一「晩秋の景」、小沢幸「跳夜」、下田悦夫「みずひき」、坂本堅「町の灯」、池澤将一「風化する痕跡」くらいだろうか。
むしろ紙彩画・切り絵に観るべき作品があった。
菅野智子「スプリング」を初めとし、金子トモ子「海辺の朝焼け」、中嶋明美「はるかに想う」、近藤慶子「ながれ」、新井禮子「艶やか」、鈴木清子「奏でる」など。
将来的には紙彩画・切り絵部門あっての「日象展」になりかねないかもしれない。
工芸・造形部門は技法的に多種多彩。しかし際立つ作品が無いのがいかにも残念。
【会場の様子】
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